里人 No.11 服部 麻知子さん

里山の空気も織り込む
機織り・染織作家

服部 麻知子さん

たっぷりの自然に囲また工房から生まれる
空気に溶け込むような温もりのある
染織作品廊下に佇む機織り機
東京から南部町へ 染織の道を歩き続ける作家の営み

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おばあさんになってもできる仕事がしたい

東京生まれの服部さんが染織に興味を持ったきっかけは、デパートで機織りの実演販売を目にした時のこと。

織り機という機械の仕組みや、織り機にかけられた経糸と緯糸が、組み合わさって布になっていく様子は当時高校生だった服部さんを虜にした。

「当時は大学進学するのが当たり前になってきつつあった世の中。
でも、本当にそれでいいのだろうか?と疑問を持っていたんです。」そう話す服部さんは、進学を目指して美大を受けつつも、〝おばあさんになってもできる仕事がしたい〟と思っていたそう。

そんな折、高校3年の夏休みにお父様の知り合いを頼って京都の機織り工房を見学に行き、それをきっかけに進学をやめて卒業後すぐその工房に弟子入り。
5年間そこで染織を学んだ。

とてもこだわりを持った先生に教わった染織は、「染料も水もそれぞれの土地で違うのだから、それぞれの場所でできるやり方をする」ということだった。
機織り機もいろいろな種類に触れ、先生から学んだ様々なことが、後に鳥取で住むようになって活かされているという。

 

南部町との縁

弟子入りした染織の先生が携わっていた、米子市の『アジア博物館・井上靖記念館』の開館。
それについて一緒に米子を訪れていた服部さんだったが、先生が準備中に亡くなられ、急遽仕事を引き継ぐことになった。

軌道に乗ったら東京に帰るつもりだった服部さんだったが、当時たまたま東京から伯耆町に里帰りされていた彫刻家の入江達也さんと出会い、後に結婚。
2年程は米子に住んでいたお2人だったが、ご主人と親交のあった鳥取出身の画家である、齋鹿逸郎さんの勧めで南部町(旧会見町)にある齋鹿さんの実家を借りることになった。

南部町に引っ越してきたのは、お子さんが2歳の頃。当時は、嫁に来たのではなく借家人として部落に入るのは珍しいことだったが、集落の皆さんはとても温かく、またお子さんがいたことで地域の人との繋がりもでき、自然に集落に溶け込んでいけた。

「南部町は自然が豊富ですよね。」
東京では限られた空間で、音にもスペースにも気を配らなければならない環境だった。
一方南部町では裏山で染色に使う材料が採れ、庭の一角に染め場を作ることもできて、十分な作業場所がある。

「今後も、たっぷりの自然と温かい人たちに囲まれた中で、時間を大切にしながら、自分のできることをやっていきたい。」
そう話す服部さんの作品には温もりが溢れている。

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